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そんなには褒めないよ。映画評

ミニシアター系映画レビュー*沈黙する言葉

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映画「ゆれる/西川美和監督」 ブログ復刻版?

映画

永い言い訳」を見た際に、そういえば「ゆれる」について何か書いたはずだと思い、探しましたらありました(笑)。

 

ゆれる

ゆれる

 

 

以下、2006年当時に書いた文章です。

 

で、「ゆれる」です。女性監督、西川美和監督の作品で、かなり評価は高いようです。以下、ネタバレあります。

詳しいストーリーは、公式サイトとかで見ていただくとして、できるだけ簡潔に要点を書きますと、兄弟の心の揺れ動きを吊り橋の揺れにかけて丁寧に描いていくという心理劇的要素の強い映画ということになるかと思います。

その「ゆれ」が顕在化する発端になるのは、兄弟が共に知る幼なじみの女性の死です。兄は家の跡を継ぎ、弟は家を飛び出し東京で成功しています。母の法事(だと思います)のため、弟が久しぶりに戻り、兄弟と幼なじみの女性三人でピクニックに行きます。

そして、女性は吊橋から落ちて死にます。

一緒にいたのは兄です。弟は、その現場を目撃します。兄は、自分が突き落としたと自白し殺人の罪に問われます。弟は、それを救おうと奔走します。映画はこのあたりの微妙な兄弟の心の揺れを丁寧に描いていきます。

 

さて、私はスクリーンを観ながら考えます。女性監督の視点って何だろう? 女性であるがゆえのまなざしってあるのだろうか?

そりゃ、あるでしょう。だって、女性として育てられた者にしか見えない側面ってのはきっとあるはずです。

でも、これって何か変だな。もうすでに私達は、女性監督というくくりが、女流作家や女流棋士と同様に、社会的性差を逆の面から補完する言葉だと知っていますし、男性監督の視点などというものが問題にされたことは、一度だってないのです。でも、何か女性監督の…ってありそうな気がしてきます。

 

ああ、刷り込まれてる、って嘆きつつ、ちょっと、こんなふうに考えてみましょう。

女性である西川監督の視点は何でしょう? 西川監督がみているのはどんな世界なんでしょう? (こんなことを考えながら観てるってことは、どうも映画に集中していませんね…。)

 

はたと気づきます。この映画、女性が出てこないじゃん。

 

母親はすでに死んでいます。兄は、家業のガソリンスタンドを継ぎ、炊事洗濯の家事もこなしながら、父親と二人で暮らしています。件の法事の席では、弟が母についてこんなことを言います。

「一生油くっさいとこに押し込められてよ!」(正確ではありません)つまり、母は父の犠牲になって報われない一生を終えたと父をなじっているわけです。

そして、吊り橋から落ちた女性です。彼女は、弟が東京へ出る前に付き合っていた女性であり、どうも一緒に東京へ出ないかと誘われ、ついていかなかった過去を持つようです。今は、兄が切り盛りするガソリンスタンドで働き、兄は彼女に思いを寄せています。法事の夜、彼女は誘われるままに弟と寝ることになります。そして、次の日、吊り橋から落ちていきます。

映画は、このあたりまでで30分くらい、プロローグといえると思います。彼女はことの発端をつくる役割を担わされて死んでいったわけです。

 

ということで、映画は、見事に男たちだけの世界に突入していきます。

 

兄弟の心のゆれは、法廷という場に持ち込まれ(ここらあたり、え?こんな裁判ってあるの?とかなり意表をついています)、弁護士であるおじさん(父の兄)をも巻き込んで、ほんとに、ほんとに、女性が出てこない展開となっていきます。

実際に出てこないだけではなく、その陰さえもそぎ落とされているのです。確かに、女性への殺意が争われたりということで扱いとしてはそれなりにあります。しかし、一貫して描かれるのは、兄弟間の心のゆれであって、その女性へのものではないのです。

母の意志も何も考慮することなく、母の人生はつまらなかったと言わせてしまう。地方に残された女には、男についていかなかったばかりにパッとしない人生を送らせ、ひょっこり舞い戻った過去の男にもう一度夢をみさせたりする。西川監督は、そこまで徹底的に(私にはそう見えるということです)女性の存在を排除することによって、何を浮かび上がらせようとしたのでしょうか?

 

人物配置を見てみましょう。地方の生活がいやで家を飛び出した弟、家の跡を継ぎ、性格は優しいがもてない兄。

うーん、よく考えてみると、これって、かなりよく使われる兄弟のパターンですよね。おや、そういえば、おじさん…、兄の弁護をするおじさんも同じですね。東京に出て、ある意味成功している人物です。こんな場面がありました。父親とおじさんが、地方に否応なく縛られる者と出て行った者との立場から、お互いのわだかまりをぶつけ合うのです。

こうしてみると、この映画は、徹底して、地方×都会、守る×捨てる、残る×出る、束縛×自由といった対立項の中の男たちを描いていることになります。

そして、さらに言えば、多分、多くの男たちは、人生のある時期、この対立項が、人生を左右する決定的なものとして、否応なく、自らに追い被さってきたという経験を持っているに違いないと思うのです。

ああ、男たちって、こんなしがらみの中で、生かされ、もがいているんだなあ…。って思えてきませんか?

 

さて、さて、西川美和監督の見ているのはいったいどんな世界なんでしょうか?

描こうとしたものは「兄弟という、血のつながりだけで結ばれた2人の関係性の希薄さ、危うさ。そして、その先にある可能性です。私の希望は人間と人間のつながりに希望を見つけること」
「シネトレ」西川美和監督舞台挨拶

監督の意に反して、この「斜め切りジェンダー的映画評」(当時のブログタイトル 笑)的には、あのラストシーン、出所後の兄が見せる笑顔が、すべてを捨てることによって始めて得られた本当の自由と開放の笑顔に見えてくるのです。しかし、それを許す社会への道のりは、果てしなく遠いものとも思えるのです。

 

ゆれる (文春文庫)

ゆれる (文春文庫)