そんなには褒めないよ。映画評

ミニシアター系映画レビュー*沈黙する言葉

映画タイトルの50音順メニュー作りました!

当サイトおすすめ映画直近の4作品

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ブランカとギター弾き

監督:長谷井宏紀

(ネタバレ)映画はシンプルなのに物語は深い

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残像

監督:アンジェイ・ワイダ

アンジェイ・ワイダ監督の遺作、心に残る映画です!

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午後8時の訪問者

監督:ジャン=ピエール・ダルデンヌ&リュック・ダルデンヌ

(ネタバレ)ダルデンヌ兄弟、相変わらず隙がなく完璧!

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パリ、恋人たちの影

監督:フィリップ・ガレル

(ほぼネタバレ)恋に悩む男女におすすめ、大人になるために。

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最新記事

「幸せパズル/ナタリア・スミルノフ監督」窮屈で退屈な日常が追いかけてくる…

さすらいの女神たち」とは打って変わって、人生って何て窮屈なんだと思い知らされます。最初から最後まで(途中1カット、エンドロール1カットを除いて)延々と続く手持ちカメラのクローズアップが、その窮屈さを効果的にあらわしています。それを意図しての手法ではないとしてもですが…。

それにしても専業主婦の力はすごい! 冒頭のパーティーシーン、あの料理をひとりで準備し、ひとりでサーブし、ひとりで片付ける! たとえ映画だとしても、それが違和感なく受け止められるのでしょうから驚嘆です。多少、料理をする者としてはまずそれにびっくりしました。

さらにびっくりさせられます。そのパーティーで、その専業主婦、主役のマリアは、おばさん(かな?)に「おめでとう」と言われているのです。「え?」と思いながらも、その後も息子の女友達(かな?)に「手伝いましょうか?」と言われても「息子のそばにいてあげて」と、母であり、主婦である自らの役割を完璧にこなすシーンが続きます。やがて、パーティーのハイライトでしょう、マリアがろうそくを立てたケーキ運んできます。誰の誕生日かと思いきや、何と!そのろうそくを吹き消したのは、マリア自身なのです。

この冒頭のシーンはよく考えられています。ろうそくを吹き消した後の、さして盛り上がらない空気も専業主婦マリアの位置関係をとてもうまくあらわしています。

そのマリアが、ふとしたことでジグソーパズルの才能に目覚め、その面白さにのめり込んでいくことで、平穏な家庭がちょっとばかりぎくしゃくして行く様を描いています。そこにパズル大会でペアを組む男性との不倫(恋愛?)も絡み、物語はすすんでいきます。

言葉にしてしまえば、結構ありがちというか、専業主婦の「幸せだけど何かが足りない」イメージ(つくられた?)に乗っかった映画のようですが、私はちょっと違うのではないかと思います。公式サイトや映画サイトに、たとえば、「夫と二人の息子の幸せを生きがいに」とか、「平凡な女性が新しい自分を発見」などと専業主婦であるマリアを表現していますが、これってすり込まれた固定観念で語っていませんか? まあ、宣伝としては、固定化された一般イメージで語る方が受け入れられやすく、読む側も納得しやすいということなんでしょうが、固定化されたイメージで人を見る方がよほど差別的だと、私は思うのですが…。

「幸せだけど何かが足りない」のは、マリアだけではなく、夫のフアンだって同じように見えますし、フアンの生きがいだって「妻と息子の幸せ」でしょう。少なくとも、映画はそのように語っています。

「平凡な女性」って、平凡なのはみんな同じです。夫だって子供だって、皆平凡です。それにパズルをきっかけに発見したのは、決して「新しい自分」ではないでしょう。誰だって日々変わることなく続く日常から抜け出したいと思いますし、一時脱出したマリアが新しい自分を発見したとは私には思えません。ずっとくすぶり続けている極めて人間的な、そして誰もが持つ脱出願望が、ある時、ちょっとしたことで抑制する自分を超えてしまった、そんな感じに見えます。

さらに言えば、たまたま今回はパズルがきっかけだったけれども、あるいは過去に他のことで同じようなことが起きていたかも知れないと思わせます。もちろん、それは夫のフアンについても同じことです。

マリアはパズルのパートナーから幾度も求められるのですが、それに応えるくだりにしても、さほど相手の男に強い思いを持っているようには見えませんし、まあ男の方にしても、それは特別なことではなく、パートナーであれば求めて当たり前みたいな振る舞いです。ラテン系の映画では普通でしょう(笑)。

そういえば、ナタリア・スミルノフ監督は、マリアにパートナーと共に過ごすことを決断させるために、夫フアンが店へやってきた女性客と親しげに話している様子をマリアが少し離れたところからチラリと盗み見るようなカットを入れています。これは、何を意図したんでしょう? 微妙なカットですね。

で、その後、マリアはどうするかと言いますと、パートナーとひとときを過ごした関係になったにもかかわらず、パズル世界大会のドイツ行きをあっさり断ってしまいます。このあたりのやや冷めた感じの大人(?)の行動も、マリアが「新しい自分を発見」し、何かに目覚めたわけではないことを示しています。逆に、ドイツへ行かなかったことも、今の幸せを失うことが怖いのではなく、その先に待っているのが決して「新しい自分」ではなく、今と同じような「日常」の自分だと分かっているからのような気がしてなりません。

いくら逃げようとしても、窮屈で退屈な日常はすぐに追っかけてきます。唯一幻想が持てるのは、映画の中のように、子供たちだけかも知れません。

エンドロール、ひとりピクニックが切ないですね。